昭和42年2月3日 朝の御理解
どんなに信心ができて徳を受けてもやはり、人間のことでございますから、間違いがないとは言えません。特に、この勘違いというのがございます。本当に、慎重に、実意丁寧神信心を致しておりませんと、つい、間違いを起こします。それが、間違いを起こしてはならないところに、間違いが起きたり致します。それが、勘違いでございます。ね。
勿体無いお話ですけれども。初代の、小倉の桂大先生が、致命的な、言うなら、おかげを落とされた基は、やっぱり、勘違いだったらしいですね。先生が、皆さんもご承知のように、いつもお話頂きますから、もう、非常にこの、お神酒がお好きな方であった。それでも、やはり、修行から修行をなさっておられるのでございますから、そこで失敗をなさるようなことはございませんでしたけれども、ある時、ご神前に出られましたら、神様から、「一升のお神酒を燗をして飲め」というお知らせを頂いた。
はあ、それこそもう、非常に辛抱に辛抱しておられ、修行に修行しておられるんですからね、それを、もう、これが喉から手が出るほどに、だいたいはお好きなんです。ね。桂先生の、とにかく熱燗というので、もう、いよいよ頂くと、桂燗と言うて、もう、とにかく、泡が出るように、そのたぎらかさったお神酒を召し上がるのが、お好きであった。
もう、桂がんと言うて、もう、それこそ有名であったほどに、先生はやはり、お好きだったんですね。ですから、それを、勘違いなさったんですね。頂かれて、自分が、あそこら辺が大変ですね、自分の好きな物、自分がこれから手が出るように欲しいような物の場合に、そういう間違いがあるです。そういうところを、自重自重し、それを、もう一遍、念を押してお伺いをし、もう一遍、そこんところを、よく考えておられたら間違いなかったんですけども、自分がお好きなもんですから、その、さっそく下に下がられてから、一升のお神酒を燗をしてから召し上がられたんです。
それは、まあ、場合によっちゃ、はあ、もう、ちった、多すぎたかも知れませんけれども、まあ、修行と思うておられたかも分かりませんですね。そして、その、もうそれこそ、いっぱい機嫌じゃない、それだけのお神酒を頂かれてから、機嫌が良うなられてご神前に出られた時に、「桂松平、一生の不覚」というお声を頂かれたんです。
もう、本当にあの、身の毛の弥立つようなことですね。桂松平一生の不覚であったと、神様からお伝えがあった。それが、お亡くなりになる原因だったんですから。久保山先生が、今度の元旦の一番のお届けが、「自重」ということであった。自分もそれをつくづく感じておられたらしい。ね。神様から、先生はだいたい、あんまり御神夢なんか頂かない方でしたけれども、御神夢の中にも、実にその、言うなら具体的なお知らせを頂いておられたらしい。
それが、もう、今年こそ、こりゃ、私をはじめ、椛目全体の者が自重しなければならない年柄として、もう、これが、元旦一番のお願いであった。
ね。勘違いと言やあ、これは、私の子供の時でしたけれど。草野は非常に、この、浄瑠璃が流行るところですから、浄瑠璃の師匠さんが、まだ若かったですけれども、なかなか良い師匠さんがおられました。
もう、ここに、もと筑後軌道というのがございまして、ここの前で停車しよりました。筑後軌道が。その、非常に、まあ、感の強い方でしたね、おめくらさんでした。で、私は、ここの近所側の方から入りよった。隣が、やっぱり、ちょっとした店をしとりましたから、開けてございましたが。その、いつも私の方の前辺りで停まるんですから、もう、下りて行ったところが、私のお家だと、こう思ってるらしいんですね、その人が。それが、その、その時に限って、その、軌道が少しばっかり向こうへ停まったんですよ。ね。私は、そこでおった。
そしたら、金縁めがねをかけて、もう、杖は持っとられるけれども、杖も付かれんでツーッと入って、隣さに入って来なさったですもん。おばしゃまおんなさるかあち、その、家の母を呼びなさるとです。はあ、これは、間違うとりましたち言いちから、その、あわてて出て行かれたのを、本当に子供ながら滑稽だったことを覚えております。
もう、それこそ、目明きよりも感がいいと言われるめくらさんがですね、でも、やはり、勘違いです。まあ、これは滑稽なことぐらいやら、なら、おかしかったというぐらいなことでの勘違いなら良いですけれどね。あの有名な宮城道雄さんなんかでもそうでしたですね。もう、それこそ、もう、大変な感の鋭い方だったらしいです。
東京の第一回目の空襲があった時に、一番初めに、それを感で知られたのが、宮木みちおさんだと言われたんです。何か演奏会があっておると、そん時に演奏を止められた。いわば、どうも、敵機の飛行機の音だったんですね。まだ、その、色んな何と言うですかね、機械を聞かんでも、まだ、キャッチしきってないような、その音をですね、もう、一つ、もう霊感ですね。
というように、その、大変、逸話のいい方だったんですけれども、あの、どっかに旅行中にですね、汽車から落ちて亡くなられましたです。そん時なんかが、あの、お手洗いのドアと、その、乗り降り口のところのドアと間違えられたらしいですね。勘違いなんです。
もう、これなんかが、もう勘違いの、いわば、命を落とされたんです。ね。( )さんが段々信心を進めてまいります。段々、たしかに、本当にこの、私どもが信心する者は肉眼をおいて、心眼を開けと、こう仰る。ね。たしかに、これは肉眼から心眼へ移っていくんです。ね。
それを、例えば、今まで腹の立ちよったことでもです、肉眼で見るから、肉眼的な聞き方をするから腹の立つことなんですけれども、段々わかって参りますと、心の眼を持って、心の耳をもって聞かせて頂くと、それを、神の声と聞くことが出来るのです。ですから、腹の立つ段じゃない、かえってお礼を申し上げるような心が開けて来る。そこに、有り難い信心の世界があるのです。
肉眼をおいて心眼を開けよと、こう仰る。ね。どうでも、その、心眼を開かせて頂くために、お互いが精進させて頂いておるのでございますから。ところがです、ね、なら、その心眼を開かせてもらおうと、言うなら、心眼、また霊眼という場合もございます。いろんな、あの、御心眼を頂かれたというのは、一つの心眼というよりも、霊眼。ね。
実際、私どもでもこうやって、目の前に様々なことを教えて下さるですね。ですから、私、ここで皆さんがお伺いをなさる時なんかは、もう、本当に平生心、いわば、私の心の中に有り難いというものがある時でなかなきゃ、おかげ頂けません。
御教えにもありますように、お伺いをする時には、とりわけ平気な心でと、こう仰る。慌てておったり、ね、イライラしておったりする時には頂けるもんじゃない。よし、頂いても、それは、頂き間違いが多いから、ね、とりわけ平気な心でと、こう仰っておる。そこに、平生心というものが、日頃養うとかなければならんか、ということが分かります。ね。
それでも私は、もう、必ず色んなお伺いの時には、神様からお知らせを頂くんですね。いわゆる、心の眼をもって頂くんです。同時に、この肉眼をもって見る、例えて言うと、私が心の中に響いてくる、そのことでお答えをすることは滅多にない。まず、ないです。ね。私がそのことを頂いたらです、それを、もう一遍頂いてみるんです。ね。
そして、様々な一つのそういうものは、いろいろにありますもんね。これは、まあ、余談ですけれども、眼を持ってくださること、耳をもって下さること。ね。私のこの、揃うておるこの五感を通して、お知らせを下さる。ですから、眼だけじゃいかんから、耳でも頂きたい。
ね、また、肉眼のこの目でも頂きたい。で、そして、この、そこから答えを出してから、それは右ですよ、左ですよと言うて、私は皆さんにお伝えするくらいに、私、まあ、慎重にしておるつもりです。頂き違いがあってはならないと思いますから。それでも、人間生身のことでございますからね、どういう頂き違い、勘違いがあるようなことがありましょうけれども、そこんところを大事に致します。
皆さんでも、だんだん、肉眼から心眼を開かして頂かれる、現在、皆さん、言うなら過程にあり、または、おかげを受けておられる方もございましょう。ね。ですから、ここんところは、いよいよ、この平生心を持って、ことに臨まなければいけません。私は、自動車なんかに乗る人達に申します。イライラしたら、腹ん立ったするような時にはね、この平生心になるまでは、ハンドルは握っちゃ出けんち、私が言うんです。
ね、何か知らんけど、心に引っかかって引っかかってたまらんという時にはです、遅うなったっちゃ構わんから、冷静な、いわば平生心になってから行きなさい、と。それまで、御神前に座って、御祈念でもさせて頂いて、平生心になってから、おかげ頂かにゃいけん。もう、忙しゅうして忙しゅうしてと言うて何もかにもが(とみなみれて?)おるような時に、必ず無調があるんだ。
という風に申しますがですね、そういうことでもそうです。ね。勘違いで、ただ、さっきの座長さんの話じゃないですけれども滑稽なということだけで済まされるぐらいなことなら、まだいいですけれども。それこそ、取り返しのつかないことがあるのですから、勘違いで。ね。とりわけ、桂先生の最後に私どもに残された、言うなら、生きたお手本とでも申しますようなですね。ああいう大徳の先生であられましてもです、やっぱり、勘違いをして、神様から頂き違いをなさっておられた。
それが、どこに原因があったかと言うとです、自分が、言うならば喉から手が出るほどに好きなものであったというところに、私はその、ご失敗された原因があったんじゃなかろうかと、こう思うのです。ね。もう、お金お金と、こう言いよるでしょう。ですから、もう、お金のことだったら、はあ、これも神乍ながらじゃろう、おかげじゃろうと言うてから、パッと握ってしまうようなことのないように。ね。
それこそ、慎重に慎重にそこんところをですね、皆がお金の嫌いな者はおりません。ですから、お金を見せられると、お金で、いわば失敗する人があります。勘違いをするのですね。ですから、とりわけ、自分が好きな物とか、自分が求めておったといったような物を目の前に出された時には、いよいよ、検討してみなければいけません。
その慎重さが必要であると、私は思います。ね。いよいよ、肉眼を置いて心眼を開かせて頂けれる信心を頂かしてもらうことは有り難い。ね。けれども、その心眼、そういう心眼でも頂けれるようになった為にです、さっきの座長さんじゃないけど、ね、感が強うなった。皆さんでも、そうでしょうが、もう、一切に神様任せ。それは、本当にですね、有り難いことですもんね。
昨日、ある方が、もう、それこそ難儀な問題なんです。その、家を移転されなきゃならない。その時期が、もう、近づいて来てるんですよ。ところが神様は、まあ、待て待てと、こう。ですから、心配になってお伺いに見えるんですね。まあ、心配いらんよ、と。まあ、とにかく問題は、神様が必ずチャンスを与えて下さるのだから、そのチャンスが来た時に、それをキャッチ出来れるだけの信心を、そのかわり、しっかりしときなさいと、私が平生心を持って伝えられるということがですね、例えば、植木鉢をですね、そのまま、こう植えて、次ぎの鉢に植え替えて頂くところを頂くんですよね。
ですから、もう、手はいらんち。もう、決して、心配すること、慌てることはいらんて。まあ、だから、向こうから言われる時には、横着なことある時には、いいえ、もう、一生懸命探しよりますと、こう言うときなさいち言うてから言った。で、実際は、探しも何もしよらんのです。いわゆる、神様任せに、それこそなりきっちゃるんです。ね。
だから、こういう時でもです、やはり、私が頂き違いがあっておったら、こんなに私が、その、ゆとりのあると言うか、ああ、心配しなさんなとは言えんのです。
これも、やっぱり、昨日でしたけれど、ある方が、半年ほど前、山を買うておったんですね。ところが、今度、それに、七十万あまり買うとったんです。それをですね、百五十万つけるから、売ってくれち言うたげな。まあ、それこそ、本当に喉から手が出るごとというところでしょうね、言うたら。
( )、まあ、もう、あんまり飛び付くような話なもんだから、まあ、軽う返事はしとったものの、はあ、待て待て、もう一遍、椛目にお参りしてからと思うてから、昨日、参って来たんです。それで、お届けさせて頂いたら、私その、いわゆる、ご心眼に頂きますのはですね、あの、琴をですね、琴の駒がついておるでしょう。あの琴の駒を一番上の糸に、こう、駒をかけたとこを頂きます。
それけん、もう、次々とこれにかけて行くわけなんですけれどね。だから、琴に、まだ駒がかかってないから、まだ、芽が出てない、まだ芽が出るということだと、私が思うたんです。ね。ですから、これをかけ終わってしもうてから、調子でも合うてから良い音色が出る。必ず、良い音色が出る。まあ、待て。もう、言うなら、今なら売りそこなうというわけなんです。
そうですよね、半年の間に百五十万儲かって。けれども、神様は、ああ、まだまだ、まだ芽が出る。それはですね、まあ一時待たしときゃ、まちっと儲けるじゃろうといったようなもんではなくてですね、神様にそれを頂いて、同時にそれと、私の場合は、これを、あれやらこれとを頂いてですね、そこに答えが出て来るわけなんですよ。だから、私の御理解を頂いたらから、安心して、なら、もうしばらく、断りにくいけど、断りましょうて言うて帰ったんです。ね。
けれども、なら、頂き間違いますとです、私が言うことでもです、だから、皆さんがお伺いされる方の側であっても、また、伝える方の私でもです、ね、いわゆる、御理解の頂き違いちゅうのがあるんです。いわば、勘違いして、頂いて帰るわけなんですね。ね。ですから、どうぞ、もう、本当に自重しなきゃならん。特に、私どもが好きであることやら、または、これから、喉から手が出るようなことの時には、とりわけ平生心を持ってです、例え、なら、自動車に乗らせて頂くでもです、平生心がない時にはハンドルは握らんというぐらいな慎重さがです、必要である、と。同時に、私は、皆さんがです、そういう風に、どんな場合でも親先生任せになっとけばというのは、皆さんが、肉眼から心眼に移られる過程なんです、あれは。
自分じゃ分からんのだから、だから、分かる人に手を引いてもらいよりなさるようなもんです。それはそうでしょうが。手を引いてもらいよる内にです、いつの間にか、感が強うなる訳なんです。ね。そして、自分のことは、自分でお伺いが、をせよと仰るようにです、自分のことぐらいは、自分でお伺いが出来るように段々なって来るのです。
昨日、その、百五十万にしましてもですね、もう、大体、自分でお伺いが出来るぐらいなんです。ところが、他のことならばってん、金は誰でも欲しいでしょう、欲はあるでしょう。だから、これは頂き違いしちゃならんという気持ちがあるから、嫁とお伺いに来たんです。
特に、自分の心の中にも、こう求めておるようなものはです、たしかに勘違いすることが多いです。ここんところを一つ、あの、自重してですね、どうぞ、今日は一つ、勘違いのないようなね、自重の一日でありたいと願うております。皆さんも、どうぞおかげを頂かれますように。